熊本県立人吉高校同窓会「近畿繊月会」
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第18回定期総会のご報告
平成25年度の近畿繊月会総会は、平成25年2月10日大坂城内の「ホテルニューオータニ大坂」で63名の参加をえて開催されましたが、以下総会の模様を報告致します。
現役大学生を含む初参加者の自己紹介→
□開会
司会:渋谷周年幹事(13)
開会の辞:尾家 亮顧問(8)
第1部  講 話
OB講話「海から見た日本」(要約)水先案内人 宮崎 毅氏(14)
母校を経て商船大学に進み海運会社に就職。キャプテンとして世界をかけ巡ったが、見聞した中で日本人ほど温和で優れた人種はいないと痛切に感じた。周知のごとく世界には大きく分けると白・黒・黄の人種が棲んでいて我々はその間に優劣の差は無いと思い込んでいるが、外国に行くとその差が厳然としていることを悟ることになる。特にイギリスでは白人が最上位で黄色肌の日本人は同等には交際して貰えない。イスラムの宗教に基ずく行動や人種偏見は到底理解できないものだ。平和な日本にいると外敵が居る事を忘れがちになるが、世界は広くいろいろな主張が存在していることを忘れず、いつも備えて置かねばならない。
古里講話「一井正典生誕150年」(要約) 前田一洋氏(7)
先に古里のニュースから話をするが、荒瀬ダムの撤去工事がいよいよ始まった。ダムの水が排水されると本流の球磨川はもちろんのこと球磨川に流れ込む中小の河川もたちまち清流を取り戻した。ダム全てが無くなり昔のように鮎やウナギが遡上する日が待ち遠しい。
だだ、古里は高齢化と過疎化の進行が激しく人吉市の現在の人口は34,939人、そのうち高齢者が19,093で人口の31.5%を占めている。五木村に至っては1,145人村民のうち43%に当たる493人が高齢者で、これは熊本県下で一番の高齢化度でありこれには球磨村が続いている。
時に、今年は天皇陛下の歯医者として有名な郷里の偉人「一井正典」が生まれて150年になる。時間の関係で詳細は「総会資料・正典のエピソード」を読んで貰うとして、この時期の人吉藩寺ノ馬場(現在の寺町)界隈からは偉人が輩出している。この「一井正典」をはじめとして日本で初めて飛行機で飛んだ「日野熊蔵大尉」、大東亜戦争の終戦に奔走した「高木惣吉海軍少将」、唱歌「旅愁」や「故郷の廃家」で有名な「犬童球渓」も然りである。ところで、これらの人たちが生まれた幕末の人吉の状況を「新球磨風土記」で見てみると文久2年2月7日にはいわゆる「寅助火事」が発生し人吉の城下の殆どを焼き尽くしている。灰塵と帰した人吉の町も先人の努力によりたちまちにして蘇った。現在高齢化が著しく過疎化しさびれる一方の古里、これらの先人に学び古里に活気を取り戻すことが我々に与えられた責務ではなかろうか。
特別講話「戦前・戦後の教育制度の変遷」(要約) 服部史郎氏(2)
戦前の小学校は尋常小学校だけが義務教育で高等小学校は無料ではあるが任意だったので貧しい国民の子弟は高等小学校には進学せず下男・下女や子守に出されていた。
中学校は5年制でここを卒業すると高等学校や専門学校に進学した。中学に比べれば数は少ないが商業・工業・農業などの3年制の実業学校が存在した。また、教員養成機関として5年制師範学校があり授業料を徴収しなかったから恵まれない優秀な子弟が先生を志望し、当時の先生は大変優秀であった。
高等学校は3年制であったが、授業は厳しく毎年3割程度が落第し2年連続して落第すれば退学処分となっていた。高等学校の定員は当時の大学の定員とあまり変わらなかったのでここを卒業すれば殆どが大学に入学できた。
最高学府である大学は種々存在したが、やはり全国に9つしか存在しなかった帝国大学が戦前の若者のあこがれの的であった。他に医科大学、工業大学、商科大学と専門の知識技術を教授する大学が存在した。
大学ではないが医学や工業、経済、農業の専門家を養成する専門学校が存在していたし、中学校の教員養成機関として高等師範学校があった。
また、軍隊の幹部養成学校とし陸軍士官学校と海軍兵学校があり中学1,2年及び高等学校から受験できる陸軍幼年学校は陸軍士官学校の付属学校的存在であった。
終戦占領政策の一環として財閥解体、農地解放、学校制度改革が実施され軍隊が廃止されたことから軍関係の学校は廃止された。国民学校は小学校に改称され高等小学校が廃止されて全国市町村に3年制の新制中学校が開設され義務教育となった。中学校や女学校、実業学校の中等学校は3年制の高等学校に昇格した。
旧制の専門学校と大半の旧制高等学校は新制の大学に昇格し大学が全国各地に誕生し駅弁大学などという言葉が生まれた。
第2部 挨拶・活動報告
内田憲幸会長(10)が近畿繊月会の現況について報告し今回初めて大学の現役学生2名が参加したことに触れて新規会員の獲得と会の若返り活性化の必要性を強調した。次いで高山征治本部会長(15)から全国の同窓会の活動と学校創立90周年記念行事(式典は10月4日)の説明があり記念行事への協力要請がなされた。
更に、山口勲本校校長先生から人吉高等学校の現在の活動状況と大学進学状況等について説明があった。
最後に本会事務局長一省吾(9)が当期の活動・決算を報告し承認された。
第3部 懇親会
司会:梶原成二郎幹事(32)
◎乾  杯:甲斐幹事長(2期)の音頭で乾杯、懇親会を開始。
◎校歌斉唱:前田一洋名誉会員(7期)のピアノ伴奏で人中校歌、人高生徒歌斉唱。
◎土産贈呈:来賓の方々に会から記念品を贈呈
プレゼンター〈岩城敦子(27)・浮田もりよ(28)・津幡千百合(29)・              井上弘美(32)・高田理(40)〉
◎光 華 賞 :木村幸先生(人女10回101歳)に会長から長寿を祝い光華賞を贈呈。
◎お礼挨拶:101歳の木村幸先生はしっかりした足取りで単独登壇しお礼の挨拶をされた。
◎自己紹介:初参加者6名が壇上に上がり自己紹介。
河内久美子(9)、北島マサ子(10)、石動恵子(14)、高田理(40)、及び山並千佳(62・現役大学生)、村松玖梨寿(63・現役大学生)
◎ジャンケン合戦:寄贈された矢黒窯・久保田烈工氏作品を巡り全員でジャンケン合戦。
◎締  め:廣田 稔監事(17期)が大阪締めで本会の締め句
◎閉会の辞:白石玲子副会長が閉会の挨拶を行う。総会本番終了。
2次会:希望者20名程が別室で2次会を開催し自慢のノドを披露し再会を誓った。
◇番外1「酒迎え」総会前日9日
午後2時伊丹空港に到着される山口校長先生と高山同窓会長、前田先生ご夫妻を内田会長が出迎え一般法人「水都」の車で上本町のダイワロイヤルネットホテルにお送りした。夕方6時から天満橋のホテルキャスル3階の「錦城閣」で来賓4名を囲み会員15名が参加して酒迎え会を開催しました。
なお、この会にわざわざ名古屋から東海繊月会会長の中島譲治氏が日帰りで駆けつけていただきました。
◇番外2「名残会」総会翌日11日
午前8時、JR大阪駅桜橋口に集合来賓の前田先生ご夫妻を含めて23名が貸切バスで舞鶴「海軍記念館」等の観光に出かけました。この日帰旅行は元海上自衛隊一佐で舞鶴の「海軍記念館」に高木惣吉海軍少将の写真掲示に功績のある広島県呉居住の同窓生日浦直史氏(5)の企画により実現したもの。計画から視察先との交渉、車中での説明から旅程管理まですべてお世話になりました。
大阪を出る時は晴れていましたが、丹波山地を抜けるや空模様が怪しくなり舞鶴に入ると雪交じりの雨、案内の日浦さんの話し通り「弁当忘れても傘忘れるな!」の「うらにし」の天気ながらバスは予定通り10時海上自衛隊舞鶴総監部「海軍記念館」に到着しました。 正面玄関で軍艦旗の前に鎮座する初代鎮守府長官東郷平八郎元帥の銅像に敬礼して館内に入ると玄関右手の展示室に古里人吉の偉人「高木惣吉海軍少将」の写真額が掲示され説明には「人吉出身」と書いてありました。
大先輩の写真を後に「引揚記念館」に向い戦後の悲惨な引揚の様子とロシア抑留の暴虐さに涙を流し、更にひどくなった雪の中23人は傘もささずに濡れるのを構わず異国の丘記念像まで歩きました。終戦から昭和33年まで英霊を含む60万人があこがれの祖国に第一歩を標した木造の平桟橋は鋼鉄製に変わり引揚者宿泊所は工場になっていましたが、静かに波を打つ海は昔とかわらず一同今日の平和な生活に往時を偲びました。
「舞鶴とれとれセンター」で昼食を済ませ雪道で条件が良くないことから予定していた日本三景「天橋立」の観光を諦め帰途に着き、途中「篠山城址」を外から観光して午後5時JR大阪駅に帰着し全行程を無事終了しました。