■第1部 講 話 |
@OB講話 「紙のよもやま話」丸尾敏雄氏(7期)「紙の博物館」顧問学芸員 |
「紙とは何か」の定義にはじまり歴史、現況、将来さらには資源保護から環境問題へと展開。「トイレットペーパーは流せるがティッシュは流せない何故?」「辞典用紙とタバコの巻紙との関係」「模造紙は何を真似たか(日本製紙坂本工場で初めて製造)」「和紙と洋紙の違い」「投票用紙の質」「paperの語源パピルスは紙ではない」等など盛りだくさんな内容で進み、貴重な話の数々に日ごろ何気なく使い捨てている紙に関して無知であり、又その大切さを痛感した。時間不足で残念。
| 丸尾敏雄講師 |
A古里講話 「球磨盆地の民俗 春夏秋冬」前田一洋先生(7期) |
去年古里であったこと、行われたこと、これから惹起するであろうことの説明や問題提起があり、引続き古文タイムに移行。明治の徳富翁が書き残した「熊つれづれ咄」を資料に、当時の球磨の年中行事の記事を噛んで含んで解説された。風土や伝承行事が数々残る球磨盆地は「九州の遠野である」とも評されてきたのだが、これらがいつの間にか忘れ去られ滅び行くことに歯止めをかけ、如何にして伝え残していくかと、渋谷先生を始め地域の古老たちによって一部の幼稚園等でも継承の努力がなされているようだが、古里文化の存続の必要性を強く感じた。この活動の支柱が前田先生なのである。
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先生は「じいちゃん・ばあちゃんのふるさと絵本@じゃったじゃった」を昨春出版されたのに続き、第2弾「そぎゃーそぎゃーA」もこの2月末に店頭に並んだ。先日届いたがこちらも大好評のようだ。懐かしく親近感のある挿絵は遠くなった昔の景色の中に友や肉親が浮かび、読者が随意で塗り絵を楽しむようにとカラーと白黒で創られていて、孫たちとの会話が沸きそうだ。会場でこの第2弾を紹介したところ、殆どの人達が購入申込し、第1弾もとの要望もかなりあったが「再刊予定無し」とのことで答えられず残念。なお、この本のまえがきには渋谷先生から「読後のつぶやき」が寄せられている。本編のあとがきに「球磨人吉地方の戦中戦後のくらし」も刊行準備中とあり楽しみだ。
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このような活動に加えこの度球磨焼酎のPR曲を作り、焼酎学校の校長にも就任され、毎年地元新聞の「球磨弁笑科大学」で本総会の模様を詳細に伝えて頂いている。
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B特別講話 「肥薩線開通100周年」 渋谷 敦先生(中14期) |
明治44年(1908)肥薩線が開通して
この度100周年を迎えるが、その歴史について語られた。汽笛一声新橋を…は明治5年(1872)、下がって門司〜八代開通が明治29年11月、ところが福岡、佐賀、熊本、長崎の有志で組織されたこの会社に延伸計画は無かった。これに先立ち後の地元選出衆議院議員・渋谷礼や樅木義道たちが政府に働きかけ続けていた。明治22年、宮崎、鹿児島、熊本の知事の合議が成立し、肥薩への延伸運動が展開される。明治27年渋谷礼の奔走で第1期着工線に昇格。途端に水俣を通る海岸線と人吉〜吉松の山間線とに昨日の友たちの主張が別れ激しく対立した。
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渋谷礼は山間線の先頭に立ち渋沢栄一、大隈重信、尾崎幸雄、犬養毅らを次々に歴訪、なかでも参謀本部の寺内正毅大佐(後に元帥・陸軍大臣)に艦砲射撃を受ける恐れの海岸線より、食料補給基地として球磨に鉄道を通しておくことの必要を説いた。そして「陸軍は断固山間線を支持する」との発言を得た後、伊藤博文総理らを訪問し、明治34年(1901)八代〜人吉間(51.8q)のトンネル掘削に着工した。
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山と川に阻まれた天険の地での作業は困難を極めたがなかんずく矢岳トンネル(延長2096m)掘削はその極まりで悲しい歴史も残った。この貫通を最後に明治42年(1909)11月21日人吉〜吉松間が開通、既に人吉〜八代は前年5月31日に通じていたのでここに肥薩線(当時は鹿児島本線)が完成した。矢岳第一トンネルの入口(人吉側)に「天険若夷(険しい山地も平地のように越えられるようになった)」出口(吉松側)には「引重致遠(この開通で重い貨物も遠くまで運べるようになった)」の石額が有り、そこには着工時の逓信大臣・山県伊三郎と開通時の鉄道院総裁・後藤新平の銘がはめ込まれていて、この地を案内する「いさぶろう・しんぺい号」の列車名と共に往時が今に残る。
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山間線は最高勾配33%8,672,301円、海岸線は25%14,214,406円を工事に要したが、鉄橋やトンエルに給水塔など沿線施設に当時世界一流の技術を駆使した鉄道であるから「文化遺産」として是非残さねばならないと締めくくられた。
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