熊本県立人吉高校同窓会「近畿繊月会」
熊本県立人吉高校同窓会「近畿繊月会」
|今日・明日の天気予報|週間天気予報|
ふるさと・人吉
定期総会ご報告
役員ご紹介
事務局だより
ウォーキングだより
人吉リンク集
お問い合わせ
第15回定期総会のご報告
近畿繊月会定期総会は好天に恵まれた平成22年2月14日(日曜日)、大阪みなみの「道頓堀ホテル」に55名の会員が参加し開催されました。
席上、第7回総会より副会長職を勤め、当会の支柱として物心両面で運営を支援して来られた8期の尾家亮副会長が今期で退任され、後任に伊藤潔氏(15期・湯前町出身)が満場一致で推挙選出されましたのでご報告致します。
◎開会
最若手の梶原誠二郎幹事(32期)の司会で第1部が進行され、尾家亮副会長が謝意を述べた後、全員でこの1年間の物故会員 武藤雅之元顧問・服部和実先生ご両名へ黙祷を捧げご冥福を祈りました。
◎第1部 講話
O B 講 話 「あれから15年 阪神・淡路大震災」
元兵庫県警察官 鮫島茂利氏(3期)
私は震災の発生当時、兵庫県警を定年退官し甲南女子中高等学校に勤務していた。自宅が被災し勤務先の学校も被害を受け半月ほどは授業も出来ない状況だったが、学校が避難場所に指定された事もあり、自宅の跡片付けは家族に任せ、生徒や駆けつけたボランティアの人達と避難被災者の支援活動に従事した。
全国から寄せられた暖かい救援、駆けつけてくれたボランティア、家族ぐるみで活動に当たった先生方、泊まり込みで被災者の世話をした生徒達。まさに人のために己を忘れて奉仕する姿に現地で接しながら大いに感銘を受けた。
また、高校時代の恩師久保先生から「大丈夫か」と問われ、小学校の担任中上先生にも50年ぶりに再会出来たなど、思わぬことも出来したが、震災から得た教訓は 「生きていることへ感謝し、一日を有意義に過ごす、縁ある人との絆を大切に暮らす事」 これらは窮地に陥った時、心の支えになる。
〜人生は白駒の隙を過ぎるが如し〜(十八史略)
※〔資料写真・被災統計・体験による留意事項なども付記〕
古 里 講 話「今年の故郷は祝100年がぞろり」
地名 民俗研究家 前田一洋氏(7期)
昨年は肥薩線開通一世紀でしたが、今年も故郷は慶事がぞろり続きます。 先ず、明治23年3月28日、川野廉氏(翠嵐楼創設者)によって球磨川べりの景勝の地はやし≠ノ温泉の試掘が行われた結果見事、地下23間から47℃で180g/分の温泉が湧出。これは「人吉温泉」の嚆矢となりました。その後川野氏は旅館の建設と並行して「鮎の生け簀」や都市への輸送を開発。その後コースや見どころ%凾フ選定など準備に時間を費やしたが、大正12年(1913)観光「球磨川下り」を創業。鉄道の開通で失業した船運業者や船頭の救済・廃船同様の川船の再利用に勉め観光人吉の発展に貢献。   この業績は球磨川開削者林正盛≠ニ共に郷土の大恩人と言っても過言ではないと思います。
次は、人吉出身の日野熊蔵大尉がハンスグラーデー号で代々木練兵場において徳川好敏大尉のファルマン機と国内初飛行を競い共に成功したのが明治43年(1910)12月、ライト兄弟の世界初からわずか7年後の快挙でした。今日の航空業界の発展を考えますと、如何に偉大な先駆者であったかが解ります。
特 別 講 話「適塾で治療を受けた人吉の町人 久右衛門」
「秋山好古と日野熊蔵」
作家 郷土研究家 渋谷 敦氏(中14期)
人吉の町人・久右衛門は弘化3年(1846)と嘉永2年(1849)にそれぞれ水俣の13反帆や平戸藩の17反帆の船を借り受け下駄木や木地椀・焼酎等を大阪へ運び、心斎橋の吉野屋清太郎方や堀江の阿波屋、長堀の仲西安二郎方に卸したという記録がある。嘉永の上坂の折、大阪に着く前から頭痛が続いたので当時大阪瓦町にあった「西洋医 緒方洪庵」の診察を受けた。翌3年4月帰国の途中「熊本の王玄樸たる名医」に診てもらったとある。
緒方洪庵は「適塾を開いた蘭学者、のち江戸に上り法眼・奥医師兼西洋医学頭取で塾生からは幕末から明治の日本の黎明期に多数の人材を輩出したことは周知のこと。
王玄樸(黄玄朴)は明より亡命した黄穆門の6代目で、再春館の師代・医薬吟味役を勤めた人である。
久右衛門は人吉球磨の土木工事でも活躍し「お目見え」の際、子々孫々まで足袋御免や、明治元年には殿様の上京に際し金30両を献金し孫代まで帯刀御免を賜った。2度の大火で被災し掘っ立て小屋住まいも経験したが、明治10年の西南戦争(1877)では政府軍相手に宝来豆を売る等才覚を発揮、明治12年には大工延べ1500人、畳79枚の自宅を新築。〆1、535円30銭だったという。
話替わって後に日本最初のパイロットとなった人吉出身の日野熊蔵中尉は明治35年(日露戦争前夜)、中国に派遣され北京に赴くが、時の北京駐屯軍司令官が秋山好古少将(のち大将)、参謀長恒吉忠通中佐(のち少将)〜ともに松山出身〜で、その際日野中尉の才気が認められ、参謀長恒吉中佐の長女ヤス(16)と日野中尉(29)は明治40年に結婚。仲立ちは中隊長高木満穂少佐。
岳父恒吉忠通中佐は正岡子規の妹リツと(離婚の経験ありか?とも)。その後日野熊蔵の二女直子は松山市の伊藤恒雄(後に松山商大学長)と結婚。この伊藤家は阿部能成(一高校長・文部大臣)とも縁戚か。
なお日野熊蔵は孫文が東京青山に開いた革命軍事学校の校長となって孫文の中国革命を支援した時期もある。
松山というところは郷党意識が旺盛で「坂の上の雲」に描かれた以上に裏から裏への繋がりがあるようだ。漱石と熊本の関係だけではなく松山と人吉の関係も掘り起こしてみる必要を感じる。と括られました。
紙 上 講 和「相良女性史を語る」
人吉市文化財保護委員 井上道代氏(19期)
今回も「球磨女性風土記」より2編、歯切れの良い球磨の女性史が展開します。
@「猫寺一件〔玖月善女〕」は相良三十三観音の二十四番札所岩野の生善院のお話。
時は戦国時代末期、相良家の後継者争いに端を発した少しこわいお話。 湯山の地頭湯山佐渡守宗昌と普門寺住職盛譽(せいよ)兄弟が反逆との噂が流れ、藩は討伐命令を下すも、噂は偽りと解り中止の使者・犬童九介を走らす。だがこれが多良木で深酒してしまい到着が遅れた。兄宗昌は米良越えで日向へ逃げ得たが持仏堂で読経さなかの弟盛譽は惨殺され普門寺も消失した。このため母玖月善女は姪の鶴菊女と愛猫玉垂も一緒に市房社に籠り断食二十一日。“わたしの悲しみ恨みはこれからもずっと、相良家を呪い祟る”と自分の血を猫に吸わせて呪詛し、湯山の茂間が淵に入水し満願成就を祈った。その後この件に関った者が次々に発狂死亡したため、憂えた二十代長毎は慶長2年、青井神社に霊社を祀るも収まらず寛永2年普門寺旧地に生善院を建立。盛譽命日の3月16日を領民の「御嶽(市房社)参り」の日にし、帰途には生善院参りをすることを藩主自からも実行することで成仏できたかその後は祟りは消えたという。 ナーイヨエーという球磨民謡「御嶽参り」発祥のお話でもある。
A財産相続権を持つ鎌倉時代女性1「尼妙阿・長者女」
平安時代は通い婚や婿取り婚が多く、女性たちは結婚しても実家にいて子供の養育をしていたので、実家での発言権も大きかったであろうし、実家財産が分配されることもごく自然だったと思われる。その流れが鎌倉初期にも見られ、相当の女資産家もいたようだ。がしかし、蒙古襲来(元寇)のころから北九州警護役という大事な「奉公・お役目」が果たせなかった女性に対し「西国御家人の子女には当分贈与を禁止する」というお触れが出た。男性の戦場での働きが重視されるにつれ、女性の財産取得権は先細り衰退し、次第に一子相続が一般化、女性は家長の扶養下に入ったという。戦後の「日本国憲法」で投票権と共に相続権(借金持ち)をようやく認められるようになったがというお話
◎ 第2部 挨拶・報告
司会が辻 英昭幹事(13期)に替わる
冒頭内田憲幸会長(10期)が総会開会への参加支援に謝意を述べた。 次いで来賓の本部会長川野惟精氏(7期、翠嵐楼会長)が同窓会の現状を語られた後、消防団長の立場から災害に対する現在の地元の問題点を語られた。
次に本田朝英本校教頭から母校在校生の活動、進学就職等についての状況説明があり、引続き本校同窓会事務局長中島 禎先生(42期)の挨拶があった。
その後、本会事務局長一省吾(9期)が活動、決算を報告し承認された。関連事項として映画「北辰斜にさすところ」の推移、現況を鈴木とし子プロデューサが報告、謝意を述べた。また廣田稔「水都」理事長が水再生の新社団法人設立の趣旨説明を行った後、ホテルのご好意で初めて総員の集合写真を撮り配布された。
◎第3部 懇親会
司会を甲斐 泉(2期)幹事長にバトンタッチ
☆乾杯:服部史郎(2期)相談役が開会宣言
☆記念品贈呈:講師とご来賓へ若い女性会員から贈呈
☆校歌斉唱:有志による人吉中学校の校歌に引続き、渋谷先生作詞の人高生徒歌〜連なる山並〜を今村政彦幹事(15期)の指揮で斉唱
☆中 締:甲斐 泉幹事長
☆自己紹介:若い順に壇上で自己紹介、期毎の写真撮影
☆大 阪 締:廣田 稔監事(17期)による総会の総締め括り
□閉 会 の 辞
白石玲子副会長(10期)が閉会挨拶をして総会本番終了
◇番外編T [酒 迎 え] 総会前日  12日
内田会長と坂田副幹事長が伊丹で講師を出迎えたあと、一事務局長も合流し、食事前 に一足伸ばして日頃は見過ごしていた東町奉行所跡・西町奉行所跡の標柱を府庁近くと 内本町に確認し、いよいよ同窓会モードに入る。
北浜の三越跡にタワーマンション「ザ キタハマ」が誕生したが、48階から見る大川や大坂城、正面には生駒の山並が正対し、比叡山系も遠望出来る絶好のロケーションの部屋で来賓方と合流し昼食となった。来賓方の出迎え・食事場所の設定は廣田監事のご好意であったがそこを急いで戴き立ちし「適塾」視察。かなりの来館者があり、案内解説は類引く阪大関係者がボランティアで行っていると聞く。
ホテルで荷を解き今夜のメンバーと合流。全員揃っての恒例の法善寺参りは新装成った 本堂で副住職の法話を聴く。
「酒迎え」はホテルニユーオオタニの日本料理店「一心」へ場を移した。ここは今総会の第1部で司会を担当する梶原幹事が板長≠ナ腕を振るっているので安らぐ。 さすがの季の物に球磨焼酎が並ぶと会話も弾み、和み、温かな時間が流れた。
◇番外編U [名 残 会] 総会翌日 14日
講師来賓方と、淡路島観光を企画したが午前は生憎の小雨に付きまとわれた。 明石海峡大橋の舞子海上プロムナードは橋上から足下の海を眺めながら歩行するのだが、架橋の高さに足が進まない。残念ながら遠くは雨に霞んだ。淡路SAでは早速新鮮な海鮮料理で昼食。ようやく晴れ間が見え、OB講話で2年越しに取り上げた阪神淡路大震災の爪痕として未だ北淡町に残る「野島断層」を見学。地滑りを見、M7.3の強烈な揺れを体感し、備えについて改めて考えさせられた。
帰途便のため川野本部会長と中島事務局長がここから伊丹空港へ。内田会長と坂田副幹 事長が同行した。残ったメンバーは古事記に創祀を残す淡路一宮で旧官幣大社「いざなぎ神宮」に参拝。渋谷先生が放生池に架かる神石橋について由を問われたが神職からも要領を得る回答が無く興醒め。播磨灘を望むパルシェの湯で休憩。  夜は道頓堀の焼き肉で今回の無事を感謝し残った6名で乾杯納め。
平成22年年度の総会はおおむね以上のような状況で無事終了致しました。総会の開催にご協力いただきました皆様に厚くお礼を申し上げ、総会の報告とさせていただきます。  来年の総会は2月13日(日)に開催予定です。総会はもちろん「酒迎え会・名残会」はもどなたでも参加できますからふるってご参加下さい。お待ちしています。
近畿繊月会
会  長内田 憲幸
事務局長一 省吾