■第1部 講 話 |
定時に事務局一高司会で総会を開始した。尾家亮副会長(8期)の発声で判明した逝去会員4名の冥福を祈り、全員で黙祷し、開会の挨拶が述べられた。
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「OB講話」は近畿の会員が努めるが、昨年に引き続き映画「北辰斜にさすところ」の撮影を10月1日熊本城で開始し、人吉球磨での作業を経て11月30日関空・新大阪駅にて撮り終え、報道会見した廣田稔弁護士(17期)が担当し経過を報告。
その間に受けた皆さんからの助成、協力、支援に対して感謝を述べ、苦労や楽しさ、映画の出来映え、見所などを語った。キャストや大・小道具、大量の撮影機材などに2カ月近くも間近に接し、エキストラにも駆り出された球磨盆地の人達は、郡史始まって以来の撮影騒動となった模様。
作品は今、編集の詰に入っていて近々配給会社も決まり、公開は秋口になるという。
「神山監督の自信、主演の三国連太郎や緒方直人の入れ込み具合からしてヒット間違い
なし」。〜伝えたい志がある。残したい想いがある。この映画を次世代へ〜と締めくくった。ほかに林隆三、佐々木愛、斎藤とも子、神山繁、北村和夫、坂上二郎、犬塚弘、永島敏行、三遊亭歌之介などなどが個性豊かに演じている。
切符の拡売には会員諸兄姉の倍旧の支援協力が望まれ、要請します。
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【古里講話は前田一洋先生(7期)のコーナー】
鎮座1200年を昨年迎えた「青井神社と青の地名」について語られた。
青=アオ・アウとは祖霊を祀るところであり、墓地古墳である。
井は場所のこと。
人吉駅裏・村山台地の大村横穴古墳群の絶壁には27基の墓が眠る。ここは宇土地方を発祥とし、日の国を支配していた古代豪族《多・大生(おお)氏》が眠っており、その名が大村となって今なお残っている。太古にはこの絶壁間際まで球磨川が流れていて盗掘から守ったのだが、この一帯を《青》と呼び《青井神社》が壁面前方に設けられ、人吉城が築城されるころまでは大変栄えていた。またこの横穴掘りの工人は八代に上陸したと伝承されているガラッパの「九千坊」異称「ひょーすけ」ではなかったのか、古代金採掘人「兵主部(ひょーすべ)」と推定する、とロマンに花が咲き、もう一つの「豪快痛快猪狩り」は時間切れ。
前田一洋先生はこの度球磨人吉の昭和風俗図鑑「じゃったじゃったー」をB5版 百頁 定価1千円で 3/1に発売される。
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●申込先 人吉中央出版社 0966−23−2580又は事務局へ。
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3時間目の勉強は普通は空腹や疲れでざわつくようだが、
ここでは逆に蘇活する。
渋谷敦先生は昨年秋口に部品の修理を終えられて、その後の疹たては経過良好だったのだが、上阪前に庭先の生木をヒョイと担いで腰を痛められ、立つも歩くも「痛テテー」の態だった。壇上に椅子を準備したが「球磨での高山彦九郎」の足跡が滑り出すといつもの授業は健在で、腰掛は最後まで遊んでいた。
かっての名残会で京の寺社巡りの折、三条大橋東詰の高山彦九郎皇居礼拝座像の写真を先生に請われて初めて存在を知り、そんな里との縁をいつか講話で語って下さいと依頼したのが結実した。
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この人は吉田松陰や東白髪など幕末の志士・学者たちに多大な影響を与え「楠木正成」や「二宮尊徳」と共に修身の教科書で取り上げられた人物という。寛政4年(1792)閏2月3日から27日迄の間に球磨川沿いに八代から人吉、市房山へ登り、米良を周り舞い戻り、羽織り袴に正装した東白髪たちを見参して大阪間から又退出していた。勤皇を鋭く説きつつ球磨焼酎に目を細める硬軟ぶりが彷彿する。この間の動向は「筑紫日記」に酒の肴まで克明に書き留められていて「球磨焼酎」の最初の宣伝人だろうと結ばれた。
続いて「日本初のパイロット人吉出身日野熊蔵」を語られた。
先生は約50年前、徳川好敏のみが日本初飛行士と記録されていたことに疑問を抱かれ、昭和35年から徹底した調査研究を始め、52年に初版本、53年に再版本、そして昨秋28年ぶりに内容を加味し読み易くなった改訂本を発刊された。初版本により見直された日野は胸像が昭和41年、徳川と共に初飛行ゆかりの東京代々木に建立され、少し経って生誕地人吉寺町にも木碑・顕彰碑が建った。彼は操縦のみでなく自作飛行機や拳銃を考案したり、はた又明治36年(1903)には革命・軍事学校長として孫文・黄興や犬養毅、宮崎滔天と拘わった陸軍少佐。飛行資材に郡部の竹を削って送った話などなど。
先生は去年9月、文学功労者として熊本県文化懇話会から顕彰されたが、日野熊蔵も熊本県近代文化功労者として同じく顕彰されている。
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