| by 松藤貞人 |
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1.はじめに 天理軽便鉄道という言葉を聞いても、それがどこを走っていたのかを知る人は数少なくなった。軽便鉄道とはどんな鉄道かと問われて答えられる人も、そんなに多くない筈である。 天理軽便鉄道は、大正時代のはじめに、天理教の本部のある丹波市(天理市)と関西線の法隆寺を結んだ、軌道の幅が0.762mの簡易鉄道である。大阪と天理を最短距離で結ぶ(法隆寺で乗り換えることによって)目的で作られた宗教路線と言えよう。奈良県の場合、桜井と長谷寺を結ぶ長谷軽便鉄道(昭和13年廃止)が、同じ性格を持った鉄道として知られている。 大正11年測図地形図でコースをたどって見ると、関西線法隆寺駅の南側にある新法隆寺駅(現斑鳩町阿波)から出発して関西線の南側を走り、図中の西端で東に向きを変え、「あんど」駅(安堵)を経て小さな丘陵を越えたところで「ぬかたべ」(額田部)に着く。更に東進して「にかいどう」(二階堂)「せんざい」(前栽)を経て終着駅天理に着く、全長9.2kmのミニ鉄道である。 この鉄道が出来てから廃止に至るまでの歴史をたどってみたい。 | ![]() 木戸池の線路敷(胡内隆男氏撮影) |
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図1 天理軽便鉄道がえがかれた地形図 (安堵町史より) (注)大正11年陸地測量部作成による2万5千分の1「大和郡山」部分(この時天理軽鉄は大軌にすでに買収されている) (1)あんど (2)ぬかたべ (3)にかいどう (4)せんざい (5)てんり |
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2.軽便鉄道について 軽便鉄道とは「軽便鉄道法」によって建設された鉄道である。 明治40年の鉄道国有化によって、官私鉄道の比重が逆転して私鉄部門は著しく弱小化した。のこされた私鉄に対して「私設鉄道法」によって監督が行われていたが、「私設鉄道法」は大私鉄に重点を置いて制定された九八条からなる法規であったので、弱小化した小私鉄の実体に合わせた法律を制定する必要にせまられた。 明治43年、第二六回帝国会議に提出された「軽便鉄道法案」がそれであって、八条から成っており、「私設鉄道法」にくらべて、はるかに簡略化されており、かつ軽便鉄道補助法による補助金も出る事になったため、全国的に軽便鉄道建設ブームが起こった。 表1は大正7年11月現在の全国私有軽便鉄道表である。 レール幅も半数以上が0.762mとせまく、営業キロ数も20キロ前後の路線が多い。これらの鉄道は大正末から昭和にかけて、大私鉄に、あるいは国鉄に買収されて姿を消していく。なかには開業後4年でレールを他の鉄道に転売して廃業した鉄道もあった。 表に見られる奈良県の軽鉄も、天理軽鉄をトップにして次々に合併買収という形で現在の近鉄に吸収される事になる。 |
| 表1.全国軽便鉄道表(国有鉄道百年史より) | |||||||
| 軽便鉄道 | |||||||
| 1 | 中部鉄道 | 35 | 川越鉄道 | 69 | 松阪軽便鉄道 | 103 | 美禰軽便鉄道 |
| 2 | 中原鉄道 | 36 | 多摩鉄道 | 70 | 伊勢鉄道 | 104 | 長門鉄道 |
| 3 | 赤見軽便鉄道 | 37 | 青梅鉄道 | 71 | 近江鉄道 | 105 | 長州鉄道 |
| 4 | 宇都宮石材軌道 | 38 | 駿豆鉄道 | 72 | 湖南鉄道 | 106 | 宇和島鉄道 |
| 5 | 秩父鉄道 | 39 | 富士身延鉄道 | 73 | 長谷鉄道 | 107 | 愛媛鉄道 |
| 6 | 岩鼻軽便鉄道 | 40 | 安倍鉄道 | 74 | 吉野鉄道 | 108 | 伊予鉄道電気 |
| 7 | 上野鉄道 | 41 | 藤相鉄道 | 75 | 天理軽便鉄道 | 109 | 四国水力電気 |
| 8 | 草津軽便鉄道 | 42 | 中遠鉄通 | 76 | 大和鉄道 | 110 | 阿波電気軌道 |
| 9 | 佐久鉄道 | 43 | 浜松鉄通 | 77 | 生駒綱索鉄道 | 111 | 阿南鉄道 |
| 10 | 丸子鉄道 | 44 | 豊川鉄道 | 78 | 大阪鉄道 | 112 | 小倉鉄道 |
| 11 | 頚城鉄道 | 45 | 西尾鉄道 | 79 | 大阪高野鉄道 | 113 | 宇島鉄道 |
| 12 | 魚沼鉄道 | 46 | 三河鉄道 | 80 | 南海鉄道 | 114 | 邪馬渓鉄道 |
| 13 | 栃尾鉄道 | 47 | 愛知電気鉄道 | 81 | 加太軽便鉄道 | 115 | 日出生鉄道 |
| 14 | 長岡鉄道 | 48 | 名古屋電気鉄道 | 82 | 山東軽便鉄道 | 116 | 宇佐参宮鉄道 |
| 15 | 越後鉄道 | 49 | 長良軽便鉄道 | 83 | 野上軽便鉄道 | 117 | 大湯鉄道 |
| 16 | 流山軽便鉄道 | 50 | 岐北軽便鉄道 | 84 | 有田鉄道 | 118 | 鞍手軽便鉄道 |
| 17 | 常総鉄道 | 51 | 伊那電車軌道 | 85 | 新宮鉄道 | 119 | 芦屋鉄道 |
| 18 | 筑波鉄道 | 52 | 信濃鉄道 | 86 | 篠山軽便鉄道 | 120 | 博多湾鉄道 |
| 19 | 千葉県営鉄道 | 53 | 立山鉄道 | 87 | 播州鉄道 | 121 | 筑前参宮鉄道 |
| 20 | 竜崎鉄道 | 54 | 富山鉄道 | 88 | 竜野電気鉄道 | 122 | 大川鉄道 |
| 21 | 成田鉄道 | 55 | 礪波鉄道 | 89 | 新宮軽便鉄道 | 123 | 鹿本鉄道 |
| 22 | 湊鉄道 | 56 | 中越鉄道 | 90 | 西大寺鉄道 | 124 | 御船鉄道 |
| 23 | 水戸鉄道 | 57 | 石川鉄道 | 91 | 中国鉄道 | 125 | 肥前電気鉄道 |
| 24 | 東野鉄道 | 58 | 温泉電軌 | 92 | 三蟠軽便鉄道 | 126 | 島原鉄道 |
| 25 | 白棚鉄道 | 59 | 丸岡鉄道 | 93 | 下津井軽便鉄道 | 127 | 宮崎軽便鉄道 |
| 26 | 仙北軽便鉄道 | 60 | 京都電灯 | 94 | 井笠鉄道 | 128 | 宮崎県営軽便鉄道 |
| 27 | 田中鉱山 | 61 | 武岡鉄道 | 95 | 靹軽便鉄道 | 129 | 大隅鉄道 |
| 28 | 岩手軽便鉄道 | 62 | 尾西鉄道 | 96 | 両備軽便鉄道 | 130 | 鹿児島電気軌道 |
| 29 | 横荘鉄道 | 63 | 美濃電気軌道 | 97 | 芸備鉄道 | 131 | 南薩鉄道 |
| 30 | 秋田鉄道 | 64 | 養老鉄道 | 98 | 簸上鉄道 | 132 | 沖縄県営軽便鉄道 |
| 31 | 小坂鉄道 | 65 | 北勢鉄道 | 99 | 一畑軽便鉄道 | 133 | 美唄鉄道 |
| 32 | 陸奥鉄道 | 66 | 四日市鉄道 | 100 | 舟木鉄道 | 134 | 定山渓鉄道 |
| 33 | 東上鉄道 | 67 | 三重鉄道 | 101 | 宇部軽便鉄道 | 135 | 苫小牧軽便鉄道 |
| 34 | 武蔵野鉄道 | 68 | 安濃鉄道 | 102 | 小野田軽便鉄道 | ||
| 73〜77まで奈良県内の鉄道 | |||||||
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3.成立と経過 近世、市場集落として栄えた丹波市に天理教が起こったのは天保9年である。(大字三島)その後三島地区は教会の本部「お地場」が設けられて急速に発達し、明治15年に人口358人であったのが、大正2年には2214人と7倍近くに増加した。市場集落から宗教都市への転換がこの時期からはじまったと言えよう。 このような天理の情勢を背景に、かつ日本の各地におこった軽便鉄道ブームが呼び水となって、県会議員杉本久三郎を中心とする9名の発起人が法隆寺−丹波市間の軽便鉄道認可を政府に請願した。許可されたのは明治45年1月4日である。 <奈良朝報>明治45年1月11日の記事で次のように伝えている。 生駒郡北倭村県会議員 杉本久三郎 他九名の発企に係る、法隆寺・丹波市間五マイル四〇チューン(9km余り)資本金二五万円の天理軽便鉄道は、去る四日付を以って、その筋より免許状を下付せられたり。 これをうけて同月17日創立委員会を亀佐旅館で開き、創立委員として、才賀藤吉・八木逸郎・杉本久三郎・片山久太郎・新出目造博・向井楢市の6名を選出。要項として、1、本社を丹波市町川原城におく。2、資本金は25万円とする。3、株式は5000株。4、役員は取締役9名、監査役2名。取締役の持株100以上、監査役50以上。互選で社長1名、専務1名を選ぶ。等を決定した。 更に同年(大正1年)11月27日県公会堂で、天理軽便鉄道創立総会を開き、180名の株主が集まった。その場で、社長に戸尾善右衛門、専務取締役に杉本久三郎、取締役に稲葉彌吉・向井楢市・中沢奈良蔵・高山久太郎・毛利庫逸、監査役に沢栄太郎・寺川作次郎・杉本竜次をそれぞれ選出した。 ここに天理軽便鉄道の基礎は固まったのである。 翌大正2年5月に工事が認可され、技師長・生山万策指導のもとに、同年12月29日法隆寺側から工事がはじめられた。 同じ県の軽便鉄道でも、吉野軽便鉄道とちがって、ほぼ直線コース、しかも平野部であるという条件のため、工事は順調にはかどり、1年余りで全線5マイル48チェーン、レール幅0.762mの単線が完成した。完成日時は、大正4年1月13日である。 当時、天理軽便以外の奈良県の二つの軽便鉄道を規模で比較すると表2のようになる。 |
表2.三軽便鉄道の規模
大正4年奈良県統計書より
| 停車場名 | 停車場 間哩数 | 敷地坪数 | |||
|---|---|---|---|---|---|
| 線路 | 停車場 | ||||
| 哩分 | 坪 | 坪 | |||
| 初 瀬 線 | 自桜井 | 至北口 | 0.1 | 96 | 241 |
| 自北口 | 至宇陀ヶ辻 | 0.9 | 2,929 | 312 | |
| 自宇陀ヶ辻 | 至慈恩寺 | 0.3 | 917 | 617 | |
| 自慈恩寺 | 至黒崎 | 0.9 | 2,773 | 434 | |
| 自黒崎 | 至初瀬(長谷) | 1.3 | 3,929 | 1,535 | |
| 計 | 3.5 | 10,644 | 3,139 | ||
| 吉 野 線 | 自吉野口 | 至下市口 | 4.7 | 43,179 | 6,693 |
| 自下市口 | 至吉野 | 2.5 | 10,495 | 5,770 | |
| 計 | 7.2 | 53,674 | 12,463 | ||
| 天 理 線 | 自天理 | 至前栽 | 0.9 | 2,342 | 2,016 |
| 自前栽 | 至二階堂 | 1.2 | 2,721 | 507 | |
| 自二階堂 | 至額田部 | 1.0 | 3,954 | 1,397 | |
| 自額田部 | 至新法隆寺 | 2.5 | 6,654 | 2,293 | |
| 計 | 5.6 | 15,671 | 6,213 | ||
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吉野軽便鉄道はもっとも大きく、初瀬(長谷)軽便鉄道がもっとも小規模で、天理はその中間に位置する。 開通に先立って同年2月6日に試乗がなされたが、その時の模様を<奈良新聞>は次のように伝えている。 二月六日 天理軽鉄の試乗 |
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いかにも牧歌的な感じでほほえましい。 新法隆寺駅に機関庫があり、運転回数は平常13往復、天理教大祭などの時は15往復、編成は平常2両から3両、多客時には全車両10両を動員し、2両の蒸気機関車によって動かされた。 この機関車は、石炭と薪を混合して使ったからスピードが出ず、時速17kmと極めておそく、大祭日で客の多い時には安堵から額田部に至る登りの坂を上るのがやっとといった状態のノロノロ運転であった。 | ![]() 斑鳩町史より 天理軽便鉄道の新法隆寺駅 (大正時代、辻本忠夫氏による) |
| 開業当時の運行は次の通りである。 |
大正4年2月4日の奈良新聞より
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現在のような通勤・通学路線ではないので、朝はおそく、天理行きの最終列車は深夜に近いダイヤで、完全に天理教のための宗教路線であることを示している。会社としては、奈良盆地中部の新しい交通機関としての役割も果たすとして、その意味を含めた広告を新聞に出している。 三日間、全線運賃半額というサービスを行っているのもおもしろい。 しかしながら、世間一般は、この新会社に対して一抹の不安を抱いていたらしく、開通式の日、<奈良新聞>は次のような記事をのせている。 天鉄 開通を祝すこれを見ると大戦による経済界の動揺や経営陣が鉄道事業に未経験であることが、世間からかなり不安を以て見られていたことがわかる。 最初は物珍しさもあって乗客は予想以上にあったらしく、開通後二日目の新聞に「天理軽鉄 予想外の好成績にて一日約一〇〇円の収入ありたり」とかかれているが、1カ月すぎると客数は減少し、第1回の決算報告では、収入5663円58銭5厘に対し、支出6282円92銭5厘で、619円34銭の赤字になっている。 5年11月には戸尾社長が辞任、そのあとを稲葉彌吉が引きつぎ、経営のたてなおしにつとめたが、それでも二分程度の配当にとどまり、最後まで経営は苦しかった。 大正四年、六年、八年の統計書(表3)に示されているように旅客人員は増加しているものの、あまりにも小規模な路線で、これ以上発展の余地のないことが、経営上の致命的な欠点となった。更に後述する大阪電気軌道の順調な発展が、より一層天理軽便をおびやかす存在になっていく。 尚この鉄道利用者の特色は、往路・復路を共に利用する客が当初の見込みよりすくなくなったことである。往路はこの鉄道を利用しても復路は天理から奈良に出て、奈良から関西線を利用して帰る客が多かったと思われる。六年度、八年度の新法隆寺駅乗車人員と降車人員の大きな差は、その事を物語っているのではなかろうか。 |
表3.乗客と貨物数量と賃銭(奈良県統計書より)
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4.終焉 現在日本最大の私鉄である近畿日本鉄道の前身、大阪電気軌道株式会社(大軌)の電車が初めて上本町−奈良間を運行したのは大正3年4月30日である。 開通直後の財政難時代を切り抜けると、その後は順調に発展しはじめる。 この大軌鉄道が大正6年11月20日に、西大寺−橿原神宮前間に畝傍線建設許可を出願した事により、零細軽便である天理軽鉄の運命は急転する。 つまりこの線が完成する事によって天理軽鉄は経営に大打撃を受けるであろうと言う前提に立って、大軌が天理軽鉄を買収する事を条件に畝傍線敷設が許可された。いわば政府の命令条件である。 そこで大軌側と天理軽鉄側の話し合いによって、大正9年12月を以て13万2000円で一切の権利を大軌に譲渡することになり、ここに5年10カ月の間、走り続けた天理軽便鉄道の名称は消えて、新しく大軌電車となった。 大軌は本線を買収することによって大阪上本町から天理まで直通電車を運行する事を考えた。そのために畝傍線平端駅以東のレール幅を1.435mに拡げ、電化する事にして平端−天理線とし平端以西を法隆寺線として分離した。 平端−天理間4.7kmは大正11年1月17日、軌間及び動力変更の認可を受け、在来の0.762mの軌間の列車を運転しながら、拡張、電化工事をすすめた。同年3月31日完成。同夜半、新軌間にきりかえ、翌4月1日、畝傍線郡山−平端間運輸開始と同時に使用をはじめ、当地方に待望の上本町−天理間の直通電車が走ることになった。 20分間隔、平均速度44kmという、軽鉄時代と全く異なる近代的な鉄道として生まれ変わった。 平端−天理間を電化した後、軽鉄時代の名残は平端−法隆寺間4.4kmを残すだけとなった(大軌法隆寺線)。しばらくは在来設備のままで運転していたが、天理線電化後旅客量が減少したので、ガソリンカーに改めて運行することになった。これによって従来法隆寺駅にあった機関庫その他の在来設備が不要になったので、これを簡易化すると共に、駅を移設し200m近く路線を短縮して、駅名を大軌法隆寺とした(4.2kmとなる)。 買収直後は平端−法隆寺間を13往復。 蒸気列車で1輌または2輌で運転していたが、昭和3年7月1日から、30人乗り半鋼製の軌道自動車(ガソリンカー)2輌を買い入れ、以後これがこの線の主役となる。それでもこの地域の人々にとっては貴重な交通機関として利用されており、昭和7年度、12年度乗客数は次のようになっている。 |
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買収後の運転回数の変化を当時の時刻表で見ると次のようになっている。 |
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これを見ても分かるように、昭和5年前後数年の25往復が最高であって、12年の日中戦争以後はガソリンの統制がきびしく、13〜10往復の時代がつづき、太平洋戦争に突入した16年から更に運転回数が減少し、昭和19年12月の時刻表では定期は朝と夜の3往復のみで昼間は不定期のような形になった。動力もこの頃からガソリンに代わって木炭を使用するようになり、古老の話では「よう故障でとまって、その度に客は線路を歩いていったもんや」といった状況になった。 個人的な思い出話になるが、昭和19年の夏、当時中学生だった私は友人と二人で平端から法隆寺に行くのにガソリンカー(木炭)を利用しようとして、駅員から「いつ出るか分からん。歩いた方が早いかも知れん」と言われて、線路づたいに法隆寺まで行った事がある。 |
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昭和20年になると「決戦用金属回収令」が適用されて、不用・不急の鉄道線路の撤去がすすめられ、大和鉄道の田原本−桜井間と共に、平端−法隆寺間もそれに該当する事になり、20年2月11日運転中止となった。戦後も二度と復活することはなく、昭和27年4月1日正式に営業廃止となった(現在、法隆寺−平端間は小型バス路線になっている)。 右に示した、安堵町西安堵の木戸池の堤防の一部と斑鳩町阿波にそれぞれ認められる線路敷がわずかに残された天理軽便鉄道の跡地である。 (1)木戸池 (2)阿波 (3)線路跡の幅をもった道路 | ![]() |
![]() | ![]() 上 線路跡の道路(胡内隆男氏撮影) 左 木戸池の線路敷(胡内隆男氏撮影) |
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むすび 昭和30年代以降の開発によって法隆寺路線付近の風景は全く変わってしまったが、昭和のはじめにこの地域に育った人々には、その昔、玩具のようなガソリンカーがたった一輌でトコトコ走っていた風景はなつかしい想い出として記憶されている筈である。 参考文献
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Copyright
1999 松藤貞人