
茶の湯と奈良 | ![]() |

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茶の湯と言って真っ先に浮かぶ名は千利休であろうが、現在の茶道の原型を確立し、茶礼祖として仰がれているのが奈良に生まれた村田珠光(しゅこう・じゅこう、1422〜1502)である。珠光の後継者たることを自任した武野紹鴎(1505〜1555)を経てその弟子、千利休(1521〜1591)で完成を見るというのが一般的に認められている流れであり、現在残る流派のいずれもが珠光をもってその祖としているという。 珠光以前にももちろん日本に「茶」はあったわけで、はじめて「茶」が中国から伝えられたのは、遣唐使や唐に留学した僧が持ち帰った奈良時代から平安初期のことだとされる。弘仁6年(815)4月には嵯峨天皇が畿内及び近江、丹波などの諸国に茶を植え、毎年これを献上するように勅令を出している。 その後遣唐使の廃止により一時衰退するが、平安末期の混乱も収まり、鎌倉幕府成立を翌年に控えた建久2年(1191)、宋で禅宗を学んだ栄西禅師が茶の種と茶葉を粉にして飲む「抹茶法」を日本に持ち帰った。各地で禅寺を開山した栄西により茶は禅宗とともに広がる。栄西は1211年に「喫茶養生記」を著し「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」と書いているように、薬・健康食品として扱われた。読経後の渇きをいやしたり、修行のための眠気覚まし、消化を助けるものなどとして用いられたようである。 その後、医療としての飲茶を広めたのが西大寺の叡尊上人である。西大寺の大茶盛は1239年に叡尊上人が始めたものである。叡尊上人は、律院で茶園を設けさせ、慈善救済事業の一つとして施茶を行ったとされる。現存する茶の産地には叡尊上人ゆかりの律院に由来するものが多いという。 各地で茶の栽培が盛んになるにつれ、武家や公家、町人の間にも広まるようになり、嗜好品として扱われるようになってくる。この頃行われたのが、豪華な景品を賭け茶の産地を当て合う「闘茶」であり、遊びとしての茶であった。権勢を誇示するために、唐物(からもの)と呼ばれる高価な輸入品が飾られた。やがて飾り方やもてなし方に一定の形が表れ始める。 「書院造り」が完成すると大広間から書院へ空間が狭まり、能の影響なども受けながら、現在の原型に近い形があらわれるようになる。そこで登場するのが称名寺ゆかりの珠光である。栄西、叡尊らが仏教史に燦然たる名を残す宗教家であったのに対し、珠光は茶人、文化人としての側面が強い。珠光はそれまでの貴族趣味、中国志向の強かった書院の茶に対し、質実かつ精神面の重視を説き、竹製の茶杓や備前、信楽など日本製の茶碗も取り入れ「わび茶」の基礎を確立する。 珠光と親交があり、茶筅の創始者と伝えられるのが、大和高山(生駒市高山町)城主の弟で連歌師でもあった、鷹山民部丞宗砌である。高山の茶筅は珠光によってひろめられ、現在に至ってもそのほとんどの需要をまかなっている。 |
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参考文献
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